研究成果

口頭発表

平成十七年度上代文学会大会(平成17年5月15日)発表

 

荷田春満の万葉集研究 ―『万葉問答』から『万葉集童子問』へ─

城崎陽子(國學院大學・文学部兼任講師)

《発表要旨》

後世国学四大人の筆頭に掲げられる荷田春満の万葉集研究はその後半生のおよそ三〇年間に集約される。春満の代表的注釈とされる『万葉集僻案抄』(以下『僻案抄』と記す)はこの後半期においてなされたものである。

ところで、春満の万葉集研究といえば、近世期においては契沖からの影響関係の有無が取りざたされてきた。この点については、春満自身が書写した『万葉代匠記』(初稿本)が発見されたことから論議するまでもないこととなったが、この影響関係の内実について充分な検討がなされているとはいえない。以前、春満初期の訓読テキストである『万葉集和仮名訓』(東丸神社蔵・新出資料、以下『和仮名訓』と記す)には早くも契沖の訓読の影響が見られ、かつ、この訓読の享受が『万葉童蒙抄』(以下『童蒙抄』と記す)においては荷田家の学としての中枢を担っていることは指摘した(拙稿「契沖と春満の万葉集研究」『國學院大學日本文化研究所紀要』九五、平成17年3月)。しかし、この影響関係が注釈レベルでどのようにあらわれるかという点については解決されていない。

『和仮名訓』に先立つ『万葉問答』(東丸神社・新出資料、以下『問答』と記す)において「神祇道学」の書としての万葉集解釈を目指していた春満の万葉集研究は、『童蒙抄』で荷田家学として結実するのではあるが、『問答』には、未だ契沖からの影響関係は窺えず、「やすくすなほなること」を旨とする「神祇道学」的解釈がいか様に取捨選択されていったかは、春満説の構築過程を解明する上でも重要な課題と考えられる。

本発表では、『僻案抄』とほぼ同時代の『童子問』と『問答』との比較検討を行うことにより、春満の万葉集研究が、前半期から後半期にかけて契沖をはじめとする諸先学の影響を受けつつ、どのように変化していったかという点について『童子問』と『問答』の重複部分である巻三を中心に扱いつつ、春満の注釈姿勢や語釈の変遷を明らかにする。

 

戻る

トップページへ