研究成果

口頭発表

國學院大學21世紀COEプログラム・神道宗教学会共催
        テーマセッション「国学研究の諸問題」(平成15年12月7日)発題

 

契沖と春満の万葉集研究

城崎陽子(國學院大學文学部・兼任講師・COE研究員)


 近世国学における万葉集研究は社会的規範や伝統的詠歌作法、作品解釈から自由な立場をとろうとした木下長嘯子(15691649)、戸田茂睡(16291706)、下河辺長流(16241686)らに端を発する。彼らは伝統的歌学が重視した八代集に対し、『万葉集』に人間性の理想を見出し、文学的価値を再発見した。しかし、その活動は研究と呼ぶには幼く、『万葉集管見』や『万葉集鈔』では語句の抄出や選注が行われただけであった。『万葉集』の全歌注の中では北村季吟の『万葉拾穂抄』が初期のものとして注目されるが、文献学的方法を用いた全歌注釈は契沖の『万葉代匠記』を待つこととなる。

 元禄ごろを中心に上方で活躍した契沖(16401701)は、下河辺長流との交流が契機となって『万葉集』の注釈を手がけ、『万葉代匠記』を成した。悉曇学を応用した文献学的方法は和歌解釈から仏教や儒教の価値観に依拠する要素を排除し、文献学的な裏づけのもとに古典を解釈・鑑賞する国学の方法論を確立することとなった。伏見稲荷の社家であった荷田春満(16691736)は、『万葉集』などの古典研究を主としつつ、神祇神道と歌学を背景に歴史、有職故実、神学などを和学の下に組織化し、その社会的認知を目指した。こうした動きは一見時代に逆行しているかのようではあるが、国学を普及させる一つの動きともなった。ほぼ同時代を生きた両者の『万葉集』解釈に著しい類似があったことは、春満の甥で後に養子となった荷田在満(17061751)が『国歌八論』の中で述べている。この指摘以後、両者が師弟関係にあったか否かという問題はしばしば話題となり、近代に至るが、久松潜一氏が夙に指摘したように、春満が『万葉代匠記』を披見していたことは確かである。

さて、國學院大學120周年記念事業の一つとして『新編荷田春満全集』の刊行がはじまっている。刊行に伴って、京都伏見の東丸神社において文献調査が進められている。本発表はその一端を紹介しつつ契沖と春満の万葉研究についてその影響関係からそれぞれの位置づけを試み、さらには、春満が現段階においてどのように再評価し得るかという点について考えた。

 万葉集中、三大部立が唯一揃う巻である巻9を対象として、当時最も流布していた寛永版本の訓と春満の比較的初期のものとされる『和仮名訓』との比較、さらには『代匠記』を経て『童蒙抄』へと流れる訓読の様相を捉えてみると、従来春満の万葉研究は「新鋭」とか「優れた考説」として一括評価されてきたが、少なくとも訓読に対して従来の評価は当たらない点が確認された。むしろ、契沖説を享受することで会得された文献学的方法による訓釈姿勢が、春満以降の荷田家学を文献学的方法によって導き、是が引き継がれ、『童蒙抄』に至っていると考えられる。この文献学的方法の会得は、さらに大局的に見るならば、春満の中世的な古今伝授の世界からの決別を意味している。これは、春満が一方で古今伝授の家学を継承していた事を考え合わせると画期的な転換であり、この点からも春満が近世国学の祖として再評価される根拠は見いだせる。しかし、一方で、荷田家学の真骨頂であると考えられる神道的な解釈はそのまま継承される事となり、これが、万葉研究における荷田家学の特徴として残されることとなったといえる。

 

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