研究成果

研究成果論文

東海大学文学部日本文学科第六研究室卒業論文集  
           『日本文学 文化と表象 第一集』 寄稿

 

荷田春満『倭学校啓草稿』の意義

青木周平(國學院大學文学部・教授)


 昨年の八月七日(水)、前日から本務校の夏期休暇に入った翌日になるが、同僚の根岸茂夫教授と共に、京都伏見にある東丸神社に伺った時のことが、強く印象に残っている。その社務所で、宮司の松村準二様と奥様から、御自宅を整理した時に撮影したという荷田春満関係の写真多数を拝見させていただいた。それらの中に、『国学校創造啓文草稿』と題した桐箱の写真をみつけた時の喜びは、いまだに忘れられない。あまりに強い関心を示したせいか、松村様ご夫妻はわれわれを御自宅にお連れになり、同じく桐箱に入った『職原抄』と共に『国学校創造啓文草稿』の原本をお見せになった。今振り返ってみれば、この時が東丸神社の御庫が開いた歴史的「その時」であった。
 『国学校創造啓文』(以下『啓文』と略す)は、春満の歌集『春葉集』を出版した荷田信郷が、その付録として刊行したものである。その「後序」に、春満は国学校を創立する意志があって上書を啓したが、その意志は遂げられなかったとある。すなわち、「国学校」を創る必要性を説いたのがこの『啓文』であり、「国学」の目的や範囲は、この『啓文』をもって定まったと高い評価を得ているものである。ただし、『啓文』が春満の書かどうかについては、異論もある。偽書説の先鋒として論陣を張ったのは、三宅清氏であり、その著『荷田春満の古典学』第三巻(昭五九・三)の「後記」からその根拠をまとめると、次のようになる。

(1)信郷は、信盛(春満)の死後生まれたので春満とは会ってもおらず、その言には何の権威もない。
(2)信名(信郷の養父)の家記などを検すると、信郷の『春葉集』後序には間違いが多い。
(3)『啓文』を奉った「閣下」が不明である。
(4)その「閣下」は『啓文』草稿の一つの山名霊淵の書いたものにあり、それに拠ると「大嶋雲平」が該当するが、千石程の御用向の命じ役に「閣下」と使うはずがない。
(5)春満が晩年の来訪者に『啓文』の事について一言も談じた形跡がない。

右の論が出てから、平田篤胤以来、春満説として尊重されてきた『啓文』の価値には、疑問符がつけられいる。三宅氏は、間違いなく東丸神社蔵の『啓文』草稿を実見されている。氏の論の強みは、他の研究者が実見できない自筆本を含めた春満関係書を、多く資料としていることである。戦後一度も公開されていない御庫の文書を、三宅氏が調査された経緯はよくわからないが、「その時」以来再三御庫を調査させていただいた経験によれば、三宅氏が未見の書もあったであろう事も付言しておきたい。したがって、今後の論争の展開は調査の結果をまつところが大きいが、草稿を実見した筆写の立場から『啓文』の問題に一言ふれておきたい。
 三宅氏の根拠(1)(2)については、これまでの調査で『信名日記』全巻の存在が確認されており、また所在不明であった父信詮の日記も発見されたので、荷田学派の説としてのあり方は、その精査をまちたい。(3)(4)について多少説明を加える。正確に記せば、後補された白い厚紙表紙の中央に、
  東麿大人/国学校創造啓文草稿/貮通
と直書きされた文書がそれであり、『春葉集』の付録の版本と合冊されたものである。「霊淵堂」の柱書きをもつ縦罫線の付いた原稿用紙を用い、六丁ウに

甚誠惶誠恐頓首々々死罪々々/謹言/右/奉上/大嶋雲平(右ニ「大兄閣下」)/社弟荷田宿祢春満頓首再拝

と奥書を付す。また、別筆のハサミ紙があり、

「請創造倭学校啓草稿」山名霊淵筆/荷田春満加筆   二通
「謹請蒙鴻慈創造国学校啓」荷田信郷筆合冊
     「春葉集」付録ニ収載ノタメノ草稿

とある。まさに、三宅氏の(4)が正解であるが、「閣下」を「千石程の御用向の命じ役」に使うかどうかは意見を保留にしたい。ハサミ紙によると、山名霊淵の筆に春満自身が加筆したとあるが、それも確認できない。偽書かどうかの判断は、今しばらく保留する。むしろここでは、草稿と信郷の版本との相違点に注目したい。まず、国学校創立を言った重要な場面であるが、草稿には「斯開皇国之学校」とある。「皇国之学校」は「国学校」と言えなくもないが、「皇倭之学」は「国学」と はイコールではない。また、版本で

振古不聞通之者。文献不足。国学之不講。実六百年矣。

とある部分、草稿では

振古不聞通之者。文献不足。古学之不講。数百年矣。

となっている。傍線箇所の相違は、とても偶然とは思われない。恐らく、「古学」から「国学」への書き換えが行われた結果と思われる。含みに他の箇所をみても、草稿には「国学」なる語は、一語も見えない。春満の学問観を示しているとしてよく引用される

古語不通、則古義不明焉。古義不明、則古学不復焉。

という文章は、〈古語→古義→古学〉という文脈で記されている。草稿での確認は、春満の考えた学校があるとすれば、それは「国学校」ではなく「倭学校」ではなかったかということである。「国学」という語は、春満の時代にはまだ概念として熟した語ではなかったのではないか。信郷が「国学」と書き換えたとすれば、その背景こそが今後究明されるべき重要な点であろう。
 ところで、「国学」という語について、本居宣長は次のように述べている。

そもそもむかしより、ただ学問とのみいへば、漢学のことなる故に、その学と分ために、皇国の事の学をば、和学或は国学などいふならひなれども、そはいたくわろきいひざま也。

(『うひ山ぶみ』)

「漢学」と区別するために「和学」「国学」と使うことについて、「みずからの国のことなれば、皇国の学をこそ、ただ学問っと」いうべきだと述べる。「漢学」を学問として優先させる見方への批判ともいえる。また、『玉勝間』でただ二カ所のみみえる「国学」なる」用語は、「がくもん」(二四)の項にみえる。

世中に学問といふは、からぶみまなびの事にて、皇国の古をまなぶをば、分て神学倭学国学などいふなるは、例のから国をむねとして、御国をかたはらになせるいひざまにて……国学といへば、尊ぶかたにもとりなさるべけれど、国の学も事にこそよれ、なほうけばらぬいひざまなり。

右の言は、『うひ山ぶみ』の発言とほぼ同趣旨であるが、「なほうけばらぬいひざまなり」という部分に、「国学」なる語をよしとしない宣長の心境が伺える。まだ宣長に至っても、「国学」が一つの概念をもつ用語として定着しているとは言い難い。
 「国学」という概念は、荷田春満がつくりあげたというより、春満を顕彰した後の人々(たとえば平田篤胤など)が、国学の祖として祭り上げたことと深いかかわりがあるのではないか。この問題は、小稿の範囲を超えた難問である。ここでは、春満の『倭学校啓草稿』をよんだ感想の一端を述べることをもって、責めを果たしたい。

 

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