研究成果

荷田春満研究会報告


 

第18回荷田春満研究会 平成17年9月2日(金)

 

第18回研究会では、宮部香織氏が、正月十四日付、信允(松平権之助)差出書簡を担当した。

 本書簡では、新春の挨拶に続いて、「中条対馬守」が年始の使いとして京都へ上っていることが記されている。対馬守とは高家の中条信実のことであり、正徳496日〜享保7年526日の間は対馬守、以降は大和守を称した。この間享保47年の二度上京している(広島大学所蔵『高家代々記』上下による)。本書簡の年代確定の手掛かりのひとつとなろう。なお、春満の出府後の享保839日に下田師古と春満は中条大和守の家で対面しているという(下田師古『令問答』による。但しそこでは「中条大和守康貞」と記されている)。

 さらにこの書簡で注目すべきなのは、松平権之助が、有職故実の研究や『令集解』に関する情報を春満とやりとりしながら、春満自身の江戸下向を強く求めているということである。

・「此時節、何とそ御参府御在合候様、 願申候。左候ハヽ、御一分の御身、御兄弟、社の為ニも可然存事ニ候。」

・「何とそ春中ハ御下向の思召等も有之様存候」(尚々書)

上記のように、文中再三に渡って春満の江戸下向を求めているのである。また、下向の際の江戸での生活について、「牧野駿河守」より連絡が今後ある旨が記され、実は「駿河守」は隠居しており、今は子息が駿河守を名乗り改めているということが付け加えられている。ここでいう「牧野駿河守」とは長岡藩第三代当主・牧野忠辰(ただとき)のことである。忠辰は享保六年八月、忠辰の子であり第四代当主でもある、忠寿(ただなが)に家督を譲り隠居している。忠寿は享保六年八月家督を継ぎ、同年十一月、駿河守となっている。このことと先述の中条対馬守上京のことを合わせて考えると、本書簡の年代は享保七年と推定されるのである。

このように本書簡は、松平権之助を仲介して、春満のその門人・牧野忠辰との深い関わりが示唆される史料であると同時に、享保七年、春満最後の江戸下向の動機(恐らくは古籍探索に関連するもの)を伝えるものとして位置付けられるのである。

 


 

第16回荷田春満研究会 平成17年6月24日(金)

 

 第16回研究会では種村威史氏が、十月十三日付松平権之助(信綿)差出書簡を担当した。松平権之助は旗本、諱名は信允(のぶみつ)、信綿(のぶつら)。備後守、従五位下。知行は二千石で寄合、御徒頭、御持筒頭、西の丸御書院番頭などを歴任する。寛延3年、72歳で卒(『寛政重修諸家譜』による)。

本書簡にはまず、時候の挨拶と春満の眼病が快方へと向かっていることを喜ぶ旨の記述がある。それに続いて、春満が下田師古(幸大夫)に『肥前国風土記』の「真記」を送ったという記述が見られる。前回の書簡に続いて、春満の書籍探索活動の一端が窺える史料として、本書簡は貴重であるといえよう。『幕府書物方日記』の享保10912日条に御小納戸山本八郎右衛門から「肥前国風土記」1冊が書物方に渡されている記事があり、同月14日には同書の出所を有馬兵庫頭が尋ねたところ、山本八郎右衛門は「出所ハ不分明候、京都より参候由」を述べたと、下田幸大夫が書き留めている(大日本国近世史料『幕府書物方日記』五、252253頁参照)。この「肥前国風土記」が書簡に見えるものと同一の書であるかの確証は得られないが、本書簡の年代推定の有力な手掛かりの一つである。

さらに書面には詠草添削の礼と依頼が述べられ、続いて「伏見奉行所より之通達之義」に関する言及があるが、具体的な内容は不明である。

尚々書には「本所学問所」に関する記述が見られる。本所学問所とは、吉田家の学問所のことかと考えられ、元文年間には垂加神道家の松岡雄淵(元禄141701)年〜天明31783)年)が学頭となって吉田家の学問の刷新をはかったことは知られているが、本書簡においては、「本所学問所」が「内証向不調」と記されており、詳細は不明ながらも不振の様子が窺われる。

 


 

第15回荷田春満研究会 平成17年5月27日(金)

 

第15回研究会は、石岡康子氏が、十月九日付書簡を担当した。

前年度は、芝崎好高差出の書簡を中心に考察してきたが、平成17年度はその他の人物から春満に宛てられた書簡を見てゆく。
 今回の書簡の差出人である杉浦国頭(くにあきら/延宝
61678)年〜元文51740)年)は浜松諏訪社の大祝(おおはふり/神職)で、元禄16年に春満に入門している。賀茂真淵の師でもあり、遠江国における荷田派の中心人物である(国頭の伝記については、内田旭『杉浦国頭の生涯』老松園、昭和16年を参照)。
 本書簡の冒頭は、柳屋小左衛門の養子左兵衛が都合良く用事で京に上るのでこの手紙を持たせた、と記されている。柳屋小左衛門方塾(みちいえ)とは浜松の呉服商で歌人の柳瀬方塾(貞享
21685)年〜元文51740)年)のことであり、本書簡は京都と浜松の商用にともなう幸便である。物資の流通に知識・情報の流通が伴い、商人である方塾が遠州における情報仲介者としての役割も果たしていたことが窺われるのである(方塾の伝記に関しては、小山正『賀茂真淵伝』春秋社、昭和13年を参照)。
 続いて文面には、「この間は伏見稲荷社中の人々が鞠をしていたということを聞いたが、自分は式部の読書を進ませたくて、その世話で精一杯である」という記述がみられる。式部とは、杉浦式部朋理(ともあきら)のことで、国頭の嫡子である。この「読書」の進み具合について、まずは「儒書」「文選」がおおかた読み終わり、それから近日中に「延喜式」神祇十巻や「日本紀」を読み始めると述べられており、漢文を基礎とする国頭の子弟教育のありかたが窺える。
 また国頭が、「堂上筆跡」を春満に請う文面も見られる。杉浦国頭の書簡は六通存在し、その内三通に堂上墨跡を願う記事がある。堂上公卿の近くに接する機会のある春満から国頭へ渡り、さらにその門人である神官や浜松の上層町人へと伝わったと考えられる。ここに、中央の文化への地方の欲求が窺われ、同時に、短冊や詠草類がその伝播交流に果たした役割が浮かび上がってくるのである。
 また、国頭は「教興寺」が藤沢上人になったことを知らせている。教興寺は浜松の時宗寺院であるが、ここでは、第
50代遊行上人の快存上人のことを指す。第49代一法上人は享保10629日入寂し、快存は同年に藤沢26世となり、11318日遊行上人となる。宝暦31129日に83歳で入寂(高野修『時宗教団史─時宗の歴史と文化─』岩田書院、平成15年、160161頁参照)。享保7年の『杉浦家和歌会留書』(浜松市立賀茂真淵記念館所蔵、『静岡県史 資料編14 近世六』に抄本が集録)によれば「上人其阿」の名で、国頭の歌会に出席して歌を詠んでいるように、国頭とは親交があった。また、京と江戸の往復の途中に何度か浜松に滞在したことのあった春満と快存上人は面識があったようで、享保元年82日に浜松を発って京へ上る春満と其阿との間に歌の贈答があったことが記されている(杉浦比隈満『古学始祖略年譜』『静岡県史 資料編14 近世六』120121頁)。「当秋藤沢上人ニ成被申候」とあることから、本書簡は享保10年であると推定できる。
 さらに国頭は「彼寺ハ古キ歌書数多有之処」であるので書物検索の件で何か用があれば知らせていただきたいと記している。「彼寺」とは藤沢の清浄光寺であろう。古籍の探索に関しての興味深い人脈を示している記述であるといえる。このことから、<寺社の史料→国頭(地方の門人)→春満→幕府>という経路が想定されるのである。

 


第14回荷田春満研究会 平成17年4月22日(金)

 

平成17年度最初の研究会となる第14回研究会では、松本久史氏が『日本書紀神代巻訓釈伝類語』についての考察と、その研究史上の位置づけについて発表した。以下にその概要を示す。 

『日本書紀神代巻訓釈伝類語』の意義およびその周辺

                      國學院大學日本文化研究所助手 松本久史

『日本書紀神代巻訓釈伝類語』について

  本書は『日本書紀』神代巻に記された語に訓読を施し、その語義を五十音順に配列して編纂したものである。現態は上・下の二冊からなるが、白ボール紙表紙の装丁は、おそらく戦前の『荷田春満全集』編集前後の時期であると推定され、この構成は、原態ではないと考えられる。上巻の中扉の体をなす原装表紙には「家蔵神代紀訓釈伝類語上之上」と中央に打付題があり、上巻は「上之中」や「上之下」のように複数冊で構成されていた可能性はあるが、それらに相当する表紙は存在せず、不明である。下巻の最終丁の奥書には「神代訓釈伝東丸先生草案著述之家秘也 正預家」とあり、御殿預家(東羽倉家)に春満説の書として伝来していたことがわかる。

    語釈の方法について

  本書では、五十音順に語を配列しているが、ア行は「アイウエヲ」、ヤ行は「ヤヰユエヨ」、ワ行は「ワ」および「オ」となっており、エ、ヱ、ヰ、ヲ、オの所属が現在の五十音図とは異なっている。しかし、他に知られる春満説の五十音図として、『荷田家古伝』(無窮会神習文庫蔵)に示されているものは、現行の五十音図と「オ」と「ヲ」の位置が逆になっているだけである。また、春満の語学説に影響を受けた賀茂真淵の『語意考』に掲出されている五十音図も、現在のものとは「オ」と「ヲ」の所属が逆になっているだけである。本書の五十音の配列と、他の春満説との相違は、著述年代の違いであるのか、現在のところ明確な理由は不明である。

 本書の具体的な語釈の方法は以下の通りである。

  ・相通 「アカサタナハマヤラワ」の各行の内で音が通じる場合。

  ・音通 「アイウエオ(ヲ)」の各段の内で音が通じる場合。相通よりも適用例は多い。

  ・略語(略言) 数音で成り立つ語を省略して一音もしくは二音であらわすことであり、省略する音の箇所により、上略、中略、下略などがある。ほとんどの解釈に略語は用いられており、本書の主要な方法といえる。ただし、それらは恣意的に用いられているのではなく、傾向として語頭には下略、語尾には上略を適用する場合が多く、法則性を意識していたと思われる。

  ・二音を兼ねる いわゆる「反切」であり、真淵の用法では「約言」に当たる。しかし適用例は少なく、これを語釈に多用した真淵とは相違している。

 これらの方法を組み合わせて、本書では語義を解釈していく。語を一音一音分解して、その義を論じて本源的意味を示す別の言葉の略語であると見なす語源説がみられ、また、語源がすなわちその言葉の意味(語義)ということにもなり、ここに春満の語源意識の一端を窺うことができる。

    仮名遣いについて

  本書の仮名遣いは、当時の通用のものとは異なり、いわゆる歴史的仮名遣いに近い。これは春満独自の案出なのか、もしくは先行学説、特に契沖の『和字正濫鈔』(元禄八年刊行)などからの影響によるものかは不明であるが、契沖からの影響については、すでに三宅清による指摘がある(『荷田春満の古典学』第二巻 私家版 昭和五十九年 二二三丁ウ〜二二四丁オ)。

 本書の成立年代が不明であるため、明確な断言はできないが、春満は契沖の主張した仮名遣いの妥当性に気付いた、最も早い時期の人物であると言い得るであろう。たとえば、ほぼ同時代の新井白石は、享保四年に語学書『東雅』を著しているが、本書と比較すると仮名遣いに対する顧慮がなされているとは言い難い。たしかに、三宅清の指摘(三宅前掲書二二四丁オ)のように、宝永五年頃までの春満の著述には、旧来の仮名遣いに依拠した記述が散見され、江戸出府直後であるその時期頃までは、仮名遣いの重要性に気付いていなかったと思われる。時代はいつであるか特定は出来ないが、宝永年間の後半以降、ある時期に春満は仮名遣いを改めるようになり、『伊勢物語童子問』など晩年の著作では、仮名遣いを記紀・万葉・和名抄などの古書によって定めるべき事を強く主張しており、それが反映されている本書は、少なくとも中年以降の作であると言え、仮名遣いを正すことを主張した春満説の実践例とも言えるだろう。 

伝授との関係

  本書は「伝曰」と書き出し、訓釈を加えていく形式であるが、「一云」、「今按」が加えられている釈もあり、ともに「伝」よりも複雑に考察される傾向が窺える。これら相互の先後関係は不明であり、かつ、いずれの釈が正しいかが明言されていない。また、「不注」と頭書されたり、「今按」が抹消されたりする釈も多く存在しており、春満の語釈がある一時期に固定化されたものではなく、更新し続けられたことが窺われる。

 さらに、神代巻に記されている全ての語について訓・語釈が施されているわけではないことも注目される。神名に関しては別に『神号伝』があり、そのため本書では省かれているようであり、釈が『神号伝』にありとされている語釈も少なくない。この他、方角の語釈を施した『四方国語伝』、四季について述べた『四季国語伝』と題する書が東丸神社には蔵されている。また、『国号伝』なる書があったとされるが、該当する書の存在は不明である。春満への『入門誓詞』には「一字総括」伝(『荷田家古伝』所収)があり、五十音図やそれに基づく相通・音通が説かれている。本書でも別に「尚有口伝」と記されている語がいくつか見られる。本書やそれらの書は一群の語釈伝授として、深志の門人にのみ伝授されたことが考えられる。

神代巻解釈との関係

  神代巻解釈との関係から、注目される説をいくつか提示すると、「神」に関して、「伝」では「カクレミ」、「一云」では「カクレノヌシ」の略語であるという説が提示されている。これは春満をはじめとする荷田派の神観念にかかわる問題として重要であり、表面上、目に見える形で神は現れないという理解を示している。例えば、貝原益軒や新井白石は「上」説を採用しており、真淵においても同様に「上」説である。当時において「上」説は通説的理解であったと思われる。垂加派は別に、「鏡」説を提起しているが、本書はそれも退けている。このことは神祇説ともかかわる荷田派の独自性の主張といえるだろう。また、弟を「オトルコ(劣る子)」の略と釈しているが、「一伝」には「トシノシモ(年下)」という解釈を示している。契沖の『和字正濫要略』でも「弟」の次の「劣」の条において「上のおとうとは劣人歟、人からのおとるにはあらす、年のおとるなり」(『契沖全集』第十巻 七〇九頁)と、同様の解釈を示しているのは興味深い。これは神代巻に叙述される兄弟関係では、山幸彦や神武天皇のように、弟でありながらも系統を継いでいるように、必ずしも弟が劣っていない例が見られることから、加按され、導き出された解釈であろう。

本書を研究史上に位置づけるにあたって、視点としては、語釈(語源)説の史的研究におけるものと、日本書紀の訓読・解釈におけるものの二つに大別できよう。本書における語釈の妥当性はしばらく措くとして、相通、音通、略語を明確に区別し用いている点は、従来の語釈説を継承しつつ、それを徹底させた感を受ける。訓読に関しては、寛文九年版板本を基本としていると思われるが、『仮名日本紀』などとの詳細な比較が今後必要であろう。一方、仮名遣いについては春満が大いに注意した点であり、寛文板本をはじめとする旧来の仮名遣いを改めた画期的な研究といえるだろう。

(詳細は『新編荷田春満全集 第三巻』解題を参照。)


第13回荷田春満研究会 平成17年3月18日(金)

 

平成16年度の締めくくりとなる第13回研究会では、河野まきこ氏が三月三日付書簡を担当した。

河野まきこ(國學院大學大学院)

 本書簡ではまず、前月の歌会の報告が記されている。月並の歌会は、かねてより秋田氏宅で行う予定であったが、参加者の一人である吉田慎斎が病み上がりであるため、移動の労苦を配慮して吉田氏亭にて行ったということである。そして、詠草添削の依頼に続き、「先月廿九日」夜に湯島天神下、板倉讃岐守の屋敷より出火したことが記されている。これは、第5回研究会にて、竹宮氏が担当した書簡(三月七日付)の内容と共通するものであり、第10回研究会における渡邉氏の考察によって、その書簡が享保十年のものであることが判明している。このことから本書簡も享保十年のものであると判断される。

 

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第12回荷田春満研究会 平成17年1月28日(金)

 第12回研究会では、倉住薫氏が九月二十三日付書簡を、種村威史氏が臘月十七日付書簡を、それぞれ担当した。

倉住薫(國學院大學大学院)

 九月二十三日付書簡では、芝崎好寛の上京について記されている。「此度致上京候間弥奉頼候、先吉田江数年之名染故遣申候、段々其元へ可参候」とあり、好寛が上京する際の予定が窺える。また、主税(好寛)が春満のもとへ行くのは、本人の強い希望であるとの記述もみられた。これらの記事から本書簡は享保八年頃、好寛上京直前のものであろうと考えられる。文面によれば、春満はこの頃、煩っていた眼病が回復したらしい。
 さらに本書簡には、「令集解」に関する記述がみられる。「集解料物金六両」を好寛に託して春満に届ける旨記されている。芝崎の令集解 入手に関して、春満が便宜を図ったということであろう。ここにも春満周辺の学問形成の手掛かりがうかがえる。

種村威史(國學院大學大学院)

 臘月十七日付書簡には、春満の門人子弟教育の様子が色濃く記されている。一つは「文字訳文之会」である。「岡嶋氏も未貴亭に寄宿故、毎夜文字訳文之会も被成候而、愚息致出席候旨致大悦候」とある文脈からは、この会が春満宅にて頻繁に行われていたことが推察される。もう一つは「続日本紀之会」である。「只今続日本紀之会、一・六・二・七之日大学殿ニて被成、主税も罷出済不申候所、貴宅ニ而被仰聞被下候段承忝候所致大慶候」とあり、 大学(在満)を中心とした六国史研究の様相が窺われる興味深い一文である。さらにこの会で読み切れないところの講釈を、好寛が春満宅にて受けていることがわかる。
 そればかりか、好寛が令集解を入手できるよう取り計ったり、春満の蔵書の中で芝崎が所有していないものを好寛に書写させたりしているようであり、これらの好意に対する芝崎の礼が本書簡では述べられている。また書簡の送り主である好高に対しても、歌の細かな添削を重ねる他、「雅経百題」の読み方について、後の便りで仮名をつけて教える約束をするなど、春満の熱心さがはっきりと伝わってくる史料であった。

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第11回荷田春満研究会 平成16年12月17日(金)

 

 第11回研究会では、新山春道氏が二月八日付書簡を担当した。

新山春道(國學院大學大学院)

 内容は門人の駿河国富士浅間社祠官、富士中務(信章)が、江戸に出府したので、春満が遣わした「一物」(具体的に何を示すかは不明)のやり取りに関し、芝崎が仲介したこと、吉田(おそらくは京都の吉田家)の使者が神田明神に逗留していること等が記されている。
 富士中務は享保七年に春満が富士登山の際に案内した人物でもあり、その時の様子は『万葉童子問』(『荷田全集』第一巻所収)に記されている。なお、東丸神社蔵の『古今集箚記』にも、春満が浅間社に逗留していた時の記述が見られる。また、神田明神に吉田家の使者(幕府への年礼のためか)が逗留していることは、江戸における同社の重要性の高さを知る資料ともなると考えられる。

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第10回荷田春満研究会 平成16年10月22日(金)

 

 第10回研究会では、和田奈穂隆氏が正月廿一日付書簡を担当した。また、渡邉卓氏が年代推定の考察を行った。

和田奈穂隆(八王子高等学校非常勤講師)

 正月廿一日付書簡の内容は、在京留学中の主税(好寛)に関する件、江戸での歌会催行および添削の依頼等から成る。
 「杉浦式部殿九年御留学候間、主税儀も九年留学候様思召候」と、杉浦国頭(浜松諏訪社)の子式部(朋理)が九年間京都に留学する予定であるので、主税も九年官留学させるように春満が熱心に勧めている様子が窺え、春満の門人子弟教育の一端を知ることが出来る。実際、朋理は享保十二年から十八年まで比較的長期にわたって留学している。しかし、好高は主税の留学は短期の心つもりであったようで、「来年中」までは留学させるとして、婉曲に断りを入れている。
 また、国頭が正月に江戸に出府して年頭の挨拶を行う予定であったものが、病気により不参の由を好高が寺社奉行に届けを出しており、神田明神芝崎家が地方神社と寺社奉行との間の取次ぎ役を果たしていた点も注目される。
 書簡の年代は特定できないが、主税・朋理ともに在京中であり、享保十五年には主税は江戸に帰国していることから、享保十三年もしくは十四年と推定される。

渡邉卓(國學院大學大学院)

 渡邉氏は、第5回研究会・三月七日付書簡の記事から年代特定を試みた。その文中に、「当地ひこと風立、火事沙汰しけく、去月廿九日ニも、湯嶋天神下坂倉讃岐守殿屋敷ヨリ出火、近所迄致類焼、当所も致気仕候處、無異儀致大悦候」という火事の記事が見られる。このことが「徳川實紀」および「東京市史稿 変災篇」によって確認される。両書に記載される年代が享保十年で一致したことにより、この書簡の年代が特定されるに至った。

 

 

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第9回荷田春満研究会 平成16年9月24日(金)

 

 第9回研究会では、舟木勇治氏が孟夏廿二日付書簡を担当した。

舟木勇治(國學院大學大学院)

 当書簡も、これまでのものと同様に、歌会の報告、添削の礼および依頼等が記されているが、特徴的な点として、芝崎が春満から取り次いだ書簡の相手の名が多くみられることである。柘植伝左衛門、中井図書、杉浦修理(国頭)、東湖和尚、今沢大進などがそれである。このなかには、詳細が明らかでない人物も含まれるが、ここにも荷田家の学問の展開の様態が垣間見られよう。
 また文中に、杉浦国頭が社殿造営に関しての吟味を奉行所に受けたものと推定される記述や、今沢大進(甲斐国の祠官)が、甲斐国の社家の支配に関して、配下の社家と争いを始めたという記述もみられ、今後、年代特定の手がかりとなるであろう。

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第8回荷田春満研究会 平成16年8月24日(火)

 

 第8回研究会では、渡邉卓氏が二月朔日付書簡を、相澤京子氏が四月晦日付書簡を、それぞれ担当した。

渡邉卓(國學院大學大学院)

 二月朔日付書簡は、その大半が、歌会の報告と添削の依頼で占められているが、「且又御書物百人一首、緩々可致書写旨被仰聞、忝奉存候」という一文が注目される。第7回研究会・二月十一日付書簡の「百人一首之抄物」とこの「百人一首」とが同一のものだとすれば、当書簡は、前回の書簡の翌年以降のものということになるであろう。
 さらに渡邉氏は、本書簡の「初午」という記述から、享保九年・十年・十三年の可能性を指摘した。

相澤京子(國學院大學大学院)

 四月晦日付書簡では、まず「去ル廿二日」に芦田平内が到着したことを述べる。この人物に関しては、第4回研究会・四月廿二日付書簡にもその名が見られた。享保十一・二年前後、芝崎主税(好寛)の世話をするために京都に上った人物であり、途中で御山伝治と交代したとされる。
 また主税の世話についての礼を述べて「愚息主税儀段々御懇情、神書会ニも御丁寧ニ被仰聞候旨、致承知別而忝奉存候」と記すことから、春満による神代紀の講説を「神書会」と呼んでいた可能性が浮かび上がった。さらに芝崎は「名月記」(藤原定家の日記)について、春満に対して尋ねている。現存の書には何冊あるのか、という問いである。これが今後どのように関わってくるかは現時点では不明であるが、荷田家の家学の展開を研究してゆく上で貴重な書簡史料であることは疑いないであろう。

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第7回荷田春満研究会 平成16年6月25日(金)

早乙女牧人(東海大学大学院)

 第7回研究会では、早乙女牧人氏が二月十一日付書簡を担当した。

 本書簡において、これまで未詳とせざるを得なかった東湖なる人物について、わずかながら手がかりが見えてきた。芝崎の近況を伝える文面のなかで、「…東湖度々被参候而、致御噂申候 、手跡門弟段々繁多罷成、隙間無御座候へ共…」とある。これによれば、東湖は手習いの師匠であるということになろう。
 また、芝崎が春満に対して、「古今集之御伝授書」及び「百人一首之抄物」の書写を熱心に請い願うくだりも見られ、荷田家学の伝播の一端が垣間見える書簡でもあった。

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第6回荷田春満研究会 平成16年4月23日(金)

 

 第6回研究会では、岩原真代氏が正月十二日付書簡、中村正明氏が正月三日付書簡を担当した。

岩原真代(國學院大學大学院)

  正月十二日付書簡では、冒頭に新年の挨拶があり、年頭の祝儀として樽代二百疋を春満方に贈る旨の記述がある。また、前年十二月三十日に春満方から芝崎宛てに届いた書簡の、河内守殿(羽倉信名)が病臥している旨の内容を受けて、案じていたことが記されている。また本書簡において、当月廿五日に芝崎宅にて会詠が催されることが記されており、第3回研究会において翻刻された十二月廿四日付書簡に「来正月廿五日ニ私宅ニ而雅会興行仕候筈ニ申合候」とある記述との先後関係が指摘された。

中村正明(國學院大學文学部兼任講師)

 正月三日付書簡も、年始の挨拶に始まり、上記十二日付書簡と同様、年頭の祝儀として樽代百疋を贈るという記述がある。また本書簡にも、廿五日に歌会を催す予定であるとの記述があるが、こ ちらは秋田氏亭にて催す予定であると記されている。秋田氏についての詳細は依然不明であるが、ともかくも、上記十二日付書簡とは、別の年のものであるということであろう。

 

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第5回荷田春満研究会 平成16年2月6日(金)

 

 第5回研究会では、竹宮鉄平氏が三月七日付書簡、谷川愛氏が八月廿二日付書簡を担当した。

竹宮鉄平(國學院大學大学院)

 三月七日付書簡でも、春満への歌の添削依頼が主な内容となっている。そのなかで、第3回研究会・十二月廿四日付書簡に名の見られた東湖の詠草も同封し、共に春満の添削を願う旨の記述が確認された。また、二月二十九日に湯島天神下の板倉讃岐守の屋敷から火事が起こり、近所まで延焼したことが記されいた。その場での年代特定には至らなかったが、今後調査を進めていくうえでの、手がかりの一つとなろう。

 

谷川愛(東京大学総合研究博物館雇用職員)

 八月廿二日付書簡では、「去ル廿五日」に芝崎邸で催された歌会の報告が、内容の大半を占めている。出席者として「興津氏」「秋田氏」「杉浦修理」「東湖」「今沢大進」の名が挙げられていた。 「興津氏」は信濃国松代藩士、興津藤左衛門正辰。「秋田氏」は未詳である。「今沢大進」は、甲斐国の中心的な神職である。享保年中に勤番をめぐる訴訟で今沢側が勝訴しており(『甲斐国 社記・寺記』)、芝崎邸への出入りは、これに関係するものである可能性が高いと考えられる。また、「御仕置例選述」初編一七、寛政元(一七八九)年五月に、「甲州府中神主井今沢大進、相手同国上條新居村社人上條志摩外六拾弐人申渡難渋出入一件」(『近世法制史料集』)とある今沢大進はこの子孫であると考えられる。
 芝崎好高や杉浦国頭、今沢大進など、春満のもとには有力な神職が集っている。本書簡は、春満を中心とした当時の人間関係や学問形成のありかたが浮かび上がってくる史料であるといえよう。

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第4回荷田春満研究会 平成16年1月23日(金)

 

吉岡孝(國學院大學文学部兼任講師)

 第4回研究会では、吉岡孝氏が四月廿二日付書簡を担当した。この書簡の主眼は、数年懇望していた古今伝授書を贈られた返礼にあると判断される。 春満が村井政方に対して古今伝授を行っていたことは既に知られているが、この書簡により、芝崎に対しても古今伝授を行っていたことが明らかになった。また、書簡を収めていた箱の返送に際して、その鍵を好寛の手紙に同封する旨が記されており、好寛も書状を送っていることが推察される。
 その他、歌の添削の礼、芝崎宅での歌会の日時報告なども記されていた。また、「芦田平内」の帰還、「御山伝治」の派遣の記述があり、両者の詳細は不明であるが、芝崎の関係者であることは間違いないと考えられる。
 芝崎好高は元禄一五年(一七〇二)八月一七日に宮内少輔に叙任されている。死亡したのは享保一八年、(一七三三)四月二九日である。このことから判断すると、この史料の作成年次は元禄一六年から享保一八年の間ということになる。享保一〇年代のものである可能性が高いと考えられる。

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第3回荷田春満研究会 平成15年12月26日(金)

 

 第3回研究会では、宇野淳子氏が芝崎好高差出・二月廿日付書簡、宮部香織氏が同十二月廿四日付書簡をそれぞれ担当した。

宇野淳子(國學院大學日本文化研究所臨時雇員)

 二月廿日付書簡は、芝崎好高が在京中の息子主税(好寛)の件についての様子を窺う内容となっている。他に春満門人の有力神職(杉浦国頭ほか)の江戸在府の有無を報じている。また、「先日者吉田使ニ代匠記二冊・・・」という記述から、『代匠記』の貸借があったことが窺われた。契沖の影響が確実にあったことがわかる、興味深い記述といえよう。この『代匠記』を渡した「吉田使」とは、神祇道家の吉田家の関東への使者か、という話題も上ったが、決定的な証拠がなく保留となった。さらに書簡の年代を特定するために、杉浦国頭・森暉昌の出府年代を確認する必要があるとされた。

宮部香織(國學院大學日本文化研究所調査員)

 十二月廿四日付書簡は、芝崎宅で催される歌会の題や日時の報告、歌の添削の依頼を主な内容とする。また、その年在京して春満に学んでいた主税が世話になっている礼なども述べられている。これは、この書簡の年代を特定とする手がかりとなる記述であるといえる。文面中に記される、東湖和尚とは何者か、という疑問が残った。

 

 

 

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第2回荷田春満研究会 平成15年11月28日(金)

 

清水正彦(國學院大學特別研究生)

 第2回研究会では、まず松本氏によって荷田春満と神田明神との関係についての概説が行われた。
 
神田明神の祠官であった芝崎家は好高以来、春満の門人となり、江戸における中心的門人としての役割を果たしていたと考えられる。芝崎に関する従来の研究は、羽倉敬尚氏によるものがあるが(鈴木淳編『近世学芸論考―羽倉敬尚論文集―』明治書院 平成4年に所収)、現存史料が少ないという状況において、停滞しており、江戸における国学の展開を考える上で芝崎家関係の書簡を解読することは大きな意義があるとした。
 
続いて根岸氏によって、近世史料における草書体の基礎知識についての講義が行われた。 文書解読の精度向上は研究活動の必須条件とも言え、前回の講義と合わせて基礎知識の蓄積が図られた。

石岡康子(元埼玉県立文書館雇用職員)

 後半では、いよいよ書簡の解読作業が開始された。今回は清水正彦氏が芝崎好高差出・正月十五日付書簡、石岡康子氏が芝崎好高差出・二月廿八日付書簡を、それぞれ担当した。特に石岡氏は、本研究会における書簡史料担当協力者として、初回となる本作業の先導役を務めることとなり、今回の担当史料の他、 芝崎好高から荷田春満宛ての書簡に記載されている人物名を事前に網羅し、それらを整理した資料を作成、提示した。
 本作業は主に担当書簡史料の翻刻、人物関係の整理・把握、語句の注釈、年代の考証を骨子とする。上記の石岡氏の資料は、後続の担当者が書簡中の人物を把握する上で、大きな助けとなるだろう。

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1回荷田春満研究会 平成15年10月17日(金)

 

 平成15年10月17日、研究関係者及び大学院生有志の参加のもと、第1回荷田春満研究会が開かれた。本研究会の主たる目的は、東丸神社において新たに確認された書簡史料の解読及び注釈作業を通して、春満の人物関係や国学の発展過程を明らかにしてゆくことであるが、初回はその基盤となる知識の確認・勉強会を行った。前半は、研究協力者である松本久史氏による、春満門人についての 解説が行われ、その位置づけや相互関係が確認された。



 また後半は、根岸茂夫研究代表により、近世期の書簡・書状を読む際の基礎的な知識として、その文字遣い、体裁、料紙の扱われ方などについての詳細な講義が行われた。
 共に本研究にとって必須といえる要素であり、次回より予定されている書簡の輪読を見据えながら、参加者はそれぞれの資料に向き合った。

根岸茂夫研究代表(國學院大學・文学部・教授)

松本久史(國學院大學日本文化研究所・助手)





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