解説

元禄享保期の学問と文芸 (中村学園大学 古相正美)


 荷田春満の生きた一六六〇年代から一七三〇年代は、和暦で記すと寛文・延宝・天和・貞享・元禄・宝永・正徳、そして享保時代となります。つまり、春満の活躍した時代は、元禄・享保期という、江戸前期の華々しい文化が開花した時期になります。その中心となった場所は大坂・京都なのですが、だんだんと新しい土地江戸へ文化が流れていく時期でもあります。春満もまた、その時代元禄一三年(一七〇〇年)に江戸へ下り、弟子を教えることになります。つまり、江戸に流れた文化の一部が春満だったともいえるのです。
 まず、小説では、江戸時代の初期に生まれた仮名草子というものに代わって、浮世草子といわれる作品が作られます。大坂の町人井原西鶴は、阿蘭陀流と呼ばれる俳諧の宗匠だったのですが、一昼夜で俳諧を何句詠めるかという矢数俳諧の先導者となり、それが浮世草子『好色一代男』(天和二年)を生み出すことになります。『日本永代蔵』(元禄元年)『武道伝来記』(貞享四年)など、好色物・町人物・武家物の作品を残し、西鶴工房と言われる文芸創作サロンが作られていたとも言われています。西鶴の後は京都八文字舎が浮世草子出版の中心となり、代表的作家に江島其磧がいます。その他、教訓的な内容で教訓本と言われる、京都の増穂残口『艶道通鑑』(正徳五年)、江戸の佚斎樗山『田舎荘子』(享保一二年)なども出てきています。
 浄瑠璃では、大坂の近松門左衛門が『国姓爺合戦』(正徳五年)の時代物、『曾根崎心中』(元禄一六年)の世話物などの作品を数多く残し、紀海音も『椀久末松山』(宝永七年)を初めとした作品を残しています。
 俳諧では松永貞徳の貞門派から西山宗因の談林派へと中心が移っていく時代にあたり、宗因が大坂で西鶴を始めとする多くの門人を指導した後、延宝年間に江戸に下り、江戸談林と言われる人々が多くなります。その中に伊賀上野からやってきた松尾芭蕉がおり、其角・嵐雪を始めとした多くの門人を育てて行きながら、『野ざらし紀行』(貞享二年)『奧のほそ道』(元禄七年)などの俳文集を作っていきます。
 和歌・国学では、中院通茂に続いて武者小路実陰・冷泉為村・烏丸光栄らの公家歌人が出、通茂門人の歌人松井幸隆や釣月が江戸へ出て江戸堂上派と言われる歌檀を形成します。また、大坂の契沖は徳川光圀の命を受けて『万葉代匠記』(貞享五年)等古典注釈・国語学上の業績を残し、駿河から江戸へ出た戸田茂睡が伝統的和歌を攻撃します。春満はこの頃、この分野に登場することになります。
 漢学では、京都に木下順庵がおり、門人に新井白石・室鳩巣が出ますが、京都の伊藤仁斎・東涯父子、さらに江戸の荻生徂徠たちは古学派と呼ばれ、儒学の世界に文芸性を加え、その後の近 世漢学に大きな影響を与えていくことになります。
 このように、学問や文芸がだんだんと江戸に流れて、新しい文化が形成されつつある時代に、荷田春満も、京から江戸へ下っていきます。まさに、タイムリーな時代に江戸で学問を教えた事がわかるのです。


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